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(内容)
●生きる道を探し続けてきた  
    都市戸籍と農村戸籍
    「読書無用論」
    「個体戸」
    初めての就職
    初恋、そして「外地戸籍」・・・
    国籍 そしてビザの問題
    「資格外活動」


チャイナリニアの中国語発音指導法の誕生話
チャイナリニアのメソッドの確立
起業というより生きる道を探すためだった

●生きる道を探し続けてきた

都市戸籍と農村戸籍

中国の戸籍は都市戸籍と農村戸籍の2種類に分けられています。都市戸籍の持ち主は国家機関や、 組織、国営企業で働くことが出来ます。一方、農村戸籍の持ち主は能力の有無に関係なく、畑で働く しかありませんでした。都市戸籍に変更する数少ない方法の一つは大学に合格することでしたが、 農村戸籍の私は、合格に必要な頭の良さと家庭環境に恵まれていませんでした。従って、宿命に従えば、 私は田舎で生きるしかなかったはずでした。(今の中国ではこの状況が変わりつつあります)


「読書無用論」

「読書」は文字通り「本を読む」ということで、中国語では勉強という意味もあります。 つまり「読書無用論」とは、勉強は役に立たないということでした。

中学校に入ったころ、ケ小平氏の政策改革が始まり国が持った畑を世帯の人数に合わせ、 農民に分けるという「承包責任制」が実施されました。また、個人でも自由に商売ができる ようになり、その人達は「個体戸(自営業者)」と呼ばれました。

改革が始まったころ、自営業はまだ社会的地位が低く、教育を受けていない人が多かったのですが、 政策改革のおかげで、彼らは先に豊かになった為、「教育を受けなくても、お金を稼げるのではないか」 という風潮が田舎で広がってしまいました。急に自分の畑を持つようになった農民達は、どんどん 子供に学校を辞めさせ、畑で働かせるようになりました。

私は中学校を卒業して、ある農業の専門学校に受かりました。学費も要らない、奨学金制度もある珍しい学校で、 六人の子どもを養う両親に負担をかけないための選択でした。

勉強を否定されることに対して、まだ幼い私は疑問を感じ、納得していませんでした。みんなの反対を押し切って、 私は進学しました。

十年後、日本に留学するには十二年の学歴が最低の条件だということを知りました。 今から考えるとその時の決断はで私は日本に来られる第一枚目の切符を手に入れた瞬間だったのです。


「個体戸」

専門学校を卒業した後、家族と共に、鎮内の町に引っ越しました。しかし、コネがなければ、 就職など到底無理なことでした。そこで私は“美容室”を開くことにしました。 つまり当時まだ少ない「個体戸」になった訳です。「個体戸」は社会的地位も低く、 偏見を持たれているという現実を私は、社会デビューしてから痛感しました。

 散々苦労して、美容室の運営はやっと軌道に乗りました。ある日、政府の青年団の リーダーが私のところに訪れ,こう言いました。「鎮政府はスピーチ弁論大会を行うので、 貴女がこの美容室を立ち上げるために、隣に住む身体障害者がいかに助けてくれたか、 彼の角度から話してもらえないか」と。青年団のリーダーは、自分の仕事の都合しか 考えていませんでしたが、私は「個体戸」の本当の姿をこの社会に知ってもらういいチャンス ではないかと考えつきました。

 そして、生まれて初めてのスピーチにも関わらず、私は優勝しました。それから、 私は鎮の代表として市政府が行われたいろいろなスピーチ弁論大会に参加しました。 「生まれつきのスピーチの才能を持っています。」と当時の市政府の文化局の方は私を 高く評価してくれました。しかし、これらの活動が私をとりまく環境を変えることは ありませんでした。私はこのころから偏見と差別から離れる為その町から離れるべきでは ないかと考え始めましたが、農村戸籍のせいで都市に行くのは簡単なことではありませんでした。


初めての就職

ある日、新聞で大連開発区にある大学に属している「情報会社」の募集広告を見て、 すぐに面接に行きました。そこは、寮を提供してくれる以外は、何の保障もありませんでした。 私はそこで働き始めました。一人で一軒一軒、企業のドアを叩き始めました。営業という仕事は初めてで、 最初は怖かったのですが、だんだん大胆になってきて、社長室に直接訪問するようになりました。 ある立派な建物の最上階の社長室に入った時、そこには誰もいなくて、広々とした部屋の奥の会議室で、 何人かが会議をしているようでした。待っている間に、そこにかかってきた電話を受け、 メモも取っておきました。ようやく社長と思われる方が中から出てきました。私は自分の目的を ひととおり説明してから、メモを渡し電話の内容を伝えました。すると社長は上から下まで私を見回し、 「うちの広報部に来てくれないか」と言い出しました。「はい」と私は一秒も迷わず答えました。


初恋、そして「外地戸籍」・・・

夢のように給料をちゃんと貰える職に就きしばらくしてから、ある人との出会いから、運命の転機が訪れました。 それは私の初恋でした。彼は日本に留学し、日本企業に就職した人でした。出張先の大連で私と出会い、 彼は私に一目ぼれしました。私も優しい彼に惹かれ、恋に落ちました。彼は上海に派遣されることになり、 私は初めて飛行機に乗って、上海について行きました。

しかし、そこで私を待ち受けていたのはやはり戸籍の問題でした。今回は「農村戸籍」だけではなく、 「外地戸籍」でした。上海では上海市内戸籍以外は「外地戸籍」と呼んでいました。中国では子供は 母親の戸籍に入るので、私が上海市内戸籍でなければ、将来子供の教育にとって大きな問題となります。 彼の母親は嫌がりました。私は、常について回る「戸籍」と関係ないところに行きたいと思いました。 考え付いたのは日本しかありませんでした。そして、日本への留学手続きを彼にお願いして、 運もよく一発で日本へのビザを取ることが出来ました。


国籍 そしてビザの問題

日本に来た当初、私は飛び上がるぐらい喜んでいました。勉強とアルバイトを両立するのは想像以上に 大変なことでしたが、この国には私の未来があるから、どんなに辛くても、耐えるという覚悟をしました。 しばらくして、私たち留学生の生活活動は、まず次回のビザを更新することが最優先だと分かりました。

二年後、悲願の大学入学の夢を実現しました。しかし一年生後半から、体調がだんだんおかしくなってきて、 次第にホルモンバランス、自律神経まで崩れていきました。毎日無気力で、記憶力も著しく低下し、 忘れ物ばかりしていました。原因は過労とストレスでした。学校に通うだけで精一杯なのに、アルバイトも 続けていました。日本にいる限り私にはこの道しかなかったからです。自分の国籍を憎んだりしていました。 暗い四年間を終え、体調は大学四年生になってからやっと回復の兆しが見えてきてきました。

大学を卒業し、普通の会社に就職できました。入社してから、日本の社会、日本人の考え方などが、 初めて分かるようになりました。毎日同じことを繰り返す事務職に自分の性格が合わないこと、日本の文化、 日本人の考え方になかなかな馴染めないことなどが原因で、だんだん息が出来ないほど窮屈に感じるようになりました。

気分転換のために、ある中国語教室で中国語講師を始めましたが、その教室の粗雑な指導と乏しい教材に対して疑問を感じ、 もっといい教室を作りたいと思うようになりました。


「資格外活動」

2回目の就職ビザで三年間の有効期限を取りました。経験も資金も不足の状況で、会社を辞め、独自の発音教材と CDを開発し、「チャイナリニア、品川中国語教室」をオープンしました。ホームページやチラシ作りから、 教室の運営まで、一から全て一人でやりながら、学んできました。

私の問題は起業の大変さだけではありませんでした。就職ビザを持ち、二年近くの自営業活動が「資格外活動」 であり、違法でした。それを初めて聞いた瞬間、体が凍りました。また眠れない日々は続きました。

急いで会社を設立して、資格変更の手続きを済ませ、経営者ビザ取得という唯一の賭けに力を尽くしました。 裁判官が判決を下すのを待っているような気持ちの毎日でした。1ヶ月後、入管からの知らせが来ました。 「知らなかったといって許されることではありません。今回限り大目に見ることにしましたが、これから 資格内活動するように気をつけてください。」と警告されました。私は一年のビザの印を押されたパスポートを握りしめ、 入管から出たとたん、涙が溢れました。


チャイナリニアの中国語発音指導法の誕生話

中国では戸籍に手を縛られ、日本では国籍に足を引っ張られ、たくさんの時間と気力を無駄に奪われてきました。 「資格外活動」の件の影響で教室の運営はほとんど停止の状態でしたが、そんな不安な状況の中でも、 私は中国語発音指導法の研究を続けていました。日本人にとって、中国語の発音は一番難しいところであり、 たくさんの学習者を戸惑わせています。前の章で書いたようにこの教室のために独自の発音教材を開発しましたが、 さらに日本人が学習しやすい発音法を探るために生徒と向き合い、相談し合い、生徒の反応を観察しながら絶えず 改善してきました。いつの間にか生徒の方からうれしい声が次から次に寄せられてきました。

「先生の教え方は画期的です。」

「日本人にとって、中国語の学習の一番厚い壁は発音です。先生の教え方は、まさにこの壁を 乗り越える唯一の指導方法ではないかと思います。」

「これまで、いろいろな学校を転々として、何人もの先生に教わりながら、 殆ど挫折しかけていましたが、本当に救われました。」

辛いとき、落ち込むとき、このような生徒の方からの喜びと感動の声が私の唯一の支えでした。

現在はこの発音法は、ほぼ完璧に出来ており、これから中国語愛好者のために広げていこうと思っています。


チャイナリニアのメソッドの確立

英語と違って、中国語は漢字ばかりです。中国式のアルファベット――ピンインが読めなければ、漢字も読めません。 英語と同じように最初から会話を中心に習い始めるのは当たり前と思われていますが、決して良い方法ではないと思っています。

チャイナリニアの発音指導法はこの常識を覆すことになります。ピンインの一千四百個程の音節を最初から中心に指導し、 口の筋肉の動き、舌の位置など発音の基礎から訓練します。とても効果的、効率のいい学習法ですが、従来の意識改革への抵抗と 講師の育成の難しさから見れば、スクールの運営としては決していい選択ではないのではないかと思い、悩んだり迷ったりしていました。

しかし、いろいろな教室を転々として、チャイナリニアと出会った方の喜び、行き詰まって、諦めかかっているとき、 チャイナリニアに駆けつけた方の期待などを見て、私は敢えてこの発音指導法に基づいて、チャイナリニアのメソッドを確立しました。


起業というより生きる道を探すためだった

女性には生き方の選択肢がいくつかあります。結婚も選択肢の一つです。しかし、初恋の恋人と別れてから ついていこうと思える男性と巡り会えず、私は常に一人で歩き、一人で戦わなければなりません。 私にとって起業の熱意より、生きる道を探す必死さを実感しています。常に狭い道一本しかないため、 成功も失敗も考える余裕もなく、逃げる道もなく、ひたすら前に進んでいくだけです。未来にどんなことが私を待っているのか、 どんな道を広げていくことが出来るのか分かりませんが、せめて今は戸籍や国籍などの余計な心配がなくなっただけで幸せです。

この気持ちを日本の皆さんに伝えたくて、ここに執筆することにしました。私が常にうらやましく思い、 私の手では決して届かない、皆さんにとって身近な、ごく当たり前の幸せをもっと実感して大切にしていただきたいと思います。


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